f:id:huchijima:20170409153956j:plain

acrl (Association of College and Research Libraries)の隔年の大会に参加した。3500人以上が参加する大規模イベント。300以上の、プレゼンテーション、ワークショップ、ラウンドテーブルなど多様な形式のセッションと、これも多数の出展から成るポスターセッションが提供される大会。日本で言うと、図書館総合展を大規模にして、展示ではなく発表がメインで、かつすべての発表が大学図書館員自身によるセッションから成るイベントと思えばいい。かつ、どのセッションでも、質疑に入ると物怖じせぬ積極的な討議がかわされ、アメリカの大学図書館界の底力を感じさせた。大会のプレゼン資料、proceedingsは公開され、セッションの録音が参加者に対して1年間提供されている。日本の図書館活動(OA,Digital Library,MLA,ラーニングコモンズ、情報リテラシー教育、、、)がほとんどアメリカの思潮の影響下に展開されてきたことを考えると、これらのセッションに今後の図書館の方向を占う要素が揃っていると考えるといいようにおもう。写真は、2日目のキーノートスピーチの挨拶時のもの。ロクサーヌ・ゲイというライターのスピーチで、トランプ政権の批判(図書館への連邦助成金のカットを含む)を繰り返し、会場から賛同の拍手が沸き起こる。日本では考えられない政治的指向を明確にした会場の雰囲気だった。

conference.acrl.org

加藤典洋「戦後史」を読む。

批評家加藤典洋さんの「戦後史」を読んだ。第二次大戦中に英米露の政治家が「無条件降伏」について話し合った事実をふまえ、その直前に核爆弾の実験に成功したルーズベルトが核の使用を前提に、戦後に戦争犯罪に問われないようにするための戦略として「無条件降伏」を発案したと推測する。アメリカの占領政策はすべて核使用という戦争犯罪を秘匿するために実施されたという推測がその後に来る。実際、日本で2つの核爆弾が使用された後、国務省等の著名な高官が動揺していたことが証言(文書)から明らかになる。この動揺をねじ伏せたのが、占領政策を実施に移したトルーマン大統領らの政治判断だ。今も、核について、日本はアメリカの戦争犯罪を糾弾するのではなく、自らを含めて(人類は)「もう過ちを繰り返さない」と宣言する。これこそが、隠蔽されたアメリカの占領政策(日本人みずからの意思でアメリカの隠れた意図を体現する)の意図の実現にあたる。とすると、核の使用の世界史的な意味を白日の下にさらすことは日本にとっての自立の第一歩となる。これがこの本の中心的な主題のようにおもえる。そして、そのための戦略として、左折の憲法改正が主張されることになる。全体の論理構成はなかなか大変だったろうなと思うが、この論点は論理の運びとは別に大変魅力的な推測とおもう。

american sniper

クリント・イーストウッドの「アメリカンスナイパー」を見た。それぞれのシーンはイーストウッドらしい無為な投げやりとも思えるショットの連続だが、ショットの積み重なりが、重い印象を残す。アカデミーを取るには、各ショットが物語の盛り上がりに向けて意図的に構成される必要があるかも知れない。反戦映画でもないし、愛国映画でもない。逆に言えば、反戦映画でもあるし、愛国映画でもある。焦点は、人であり、夫であり、妻であり、要するに具体的に生きて判断して呼吸している人間がテーマということだ。無音のラストクレジットが重い印象を残す。

wwws.warnerbros.co.jp

 村上龍の「歌うクジラ」を読んだ。映画(映像)の影響が大きく、SF的なシチュエーションを映像的になぞることが大きなモチーフのように思える。未来的な状況のシミュレーション小説と言える。しかし、SF小説でない本質的な力技は、映画に良く出てくる場面やイベントの中で、主人公達が感じる内的な諸感覚を再現するところだ。これが小説を外装的なSF小説にしない防波堤の枠割りを果たしている。

 いつもの村上小説ならば、若い登場人物の感覚的な自己主張が物語を引っぱって行くが、この小説では主人公にその力が感じられない。むしろ、分子生物学的な発見により、半永久的な生命を得た「老人達」の絶望感にリアリティを感じる。作者が年を取ったと考えるべきなのか、それとも、物語のモチーフがその絶望感の表現にあるのか。私の評価は、力作(特に内的な感覚の表現)だが、作者の著作の中では、優れているとは言えないように思う。

 それにしても、所々で出てくる性的(サドマゾ的)なシーンや、冗談は相変わらずの村上節だ。

 

 

 

 

 

 

 

アラスカ大学名誉教授赤祖父俊一氏の「正しく知る地球温暖化」(誠文堂新光社)を読んだ。スパコンを使って、シミュレーションをする気象学者の二酸化炭素による温暖化説に対して、地球という複雑系の気候現象の理解しがたさを、古気候学の成果を踏まえて提示し、1800年前後から地球は自然のサイクルとして小氷河期からの回復期=温暖化の過程にあり、1946年以降の二酸化炭素の急増によるとされる地球温暖化は、両者の複合であると提案する。従って、温暖化は起きているが、その原因の要素構成の割合は科学的に究明しなければならず、スパコンによるシミュレーションは、変数として長周期の気候変動の要素を組み込んでいない。政策としての二酸化炭素削減策を国際的に主張できるだけの科学的根拠は示し得ておらず、まず、科学としてスタンスに戻らなければならない、という主張だ。あらゆる異常気象を温暖化のせいにするマスコミの論調や「排出取引」に違和感を覚える自分としては、一つの貴重な考慮すべき論と思う。概ね同じ論に立つものに、中央大学名誉教授の深井先生の著書がある。

赤祖父先生 

http://www.sci.tohoku.ac.jp/news/20121105-2032.html

深井先生(中公新書

http://blog.knak.jp/2011/08/---co2.html

 加藤典洋の「敗戦後論」を読んだ。もう20年近く前の著作だが、集団的自衛権が大きな政治的焦点となっている今、もっともポレミックなテーマを提供している批評だ。

 簡単に要約すると、日本人は「被害者」としても「加害者」としても太平洋戦争(あるは大東亜戦争、自分にとってはどういっても変らない呼称なのだが)の敗戦とその犠牲者の意味を主体的に吟味し、共有財産として価値化できておらず、したがって、護憲派(加害を強調)も改憲派(被害を主張)も、実は相補的に共有財産としての理解を所有していない日本人の現状を象徴する盾の表裏だという主張だ。

 加害者であった日本の戦死者を痛む(という「ねじれ」を根元におく)理念がそれによってアジアの加害者に対する哀悼の理念に繋がりうるのか、その「ねじれ」こそが戦後という枠組みの核にあるものであり、ひいては戦後という枠組みを超出する根拠ともなる、ということかと思う。戦後レジームの脱却という思想は自民党改憲草案とも合わせて考えると結局、「ねじれ」の解決ではなく否定であり、戦前に戻りたいという古びた保守反動の表現にしかなっていない。

 今も古びない「敗戦後論」は、日本の理念としての戦後がいまだに超えられていないことを実証していると感じさせた。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/加藤典洋 

蓮實重彦の「反=日本語論」を読んだ。30年前の著作で、ポスト構造主義の思潮を踏まえた著者の反「制度」的批評の走りの文章だ。フランス人の奥さん、フランス語と日本語を話すバイリンガルの子息、という家族環境の中で遭遇する言葉をめぐる齟齬と驚きの体験が、言語(国語)という「制度」をあぶり出す。私たちが自明とする言葉は実は充分制度化され強いられたもので、別の制度から見れば奇異なものだ。しかし、奇異と感じること自体が実は制度化された思考に毒されている。反=**とはこのような制度を相対化する思考を指している。もちろん、この「制度」は「構造」と言ってもいい訳だ。それにしても、西欧の「制度」を論じる蓮實さんの論に、江藤淳の「アメリカと私」と共通する嘆きを感じる。そこが、蓮實さんのフランス体験の核にあるものかも知れない。

「反=日本語論」 http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480020437/